麿山真実の夢日記3
 
余震が続く福岡です。お見舞いのお電話やメールをありがとうございました。本棚とテレビが倒れ、電子レンジが落下しましたが、怪我もなく、住居の破損もとりあえず、現状では見つかっていません。福岡市近郊の皆さんは、まだしばらく落ち着かないことと思いますが、お互いに気をつけてまいりましょう。 さて、夢日記は、今回の地震についてのものです。3月に入ってからの目立ったものをあげてみました。
 
2005.3.4
海辺にいる。祖母が暮らす海沿いの街に似ている。コンクリートの階段が海まで続いている。砂浜も少しあるのかもしれないが、満ちてきたら何も見えない。防波堤のような小さな船着場のような所に腰をかけている。漁港のようでもある。私は海を眺めている。左側で海女さんがもぐって何かをとっている。浅いので背中が見えている。昔の海女の真っ白な装束。ずっと海底を見ている。水中にいて浮いてこない。大きな荷物や袋を抱えて移動する人たちがいる。
 
 
2005.3.8.
Nさん(大阪在住の友人)にどこかを案内してもらっている。車に乗せてもらう。私は助手席。公民館のような所に連れて行ってくれた。そこでは年配者たちたくさんいる。皆が、急だったから何の準備も出来なかったけれどと、惣菜などを買ってきてくれて、もてなしてくれる。
 
 
2005.3.9.
を見ていた。ごみひとつない海岸。とてもきれいな海岸だが、きれいすぎて不気味。サーフィンスポットのような荒い波。サンゴ礁ではない茶色の砂浜。しばらく見ていると白波が立ち始めた。これは少し高い、と気づく。先日の津波のこともあるので、早く逃げたほうがいいと思う。「このままでは、津波が来るのをずっと眺めていて、どうして早く逃げなかったんだろうと自分が思った人たちみたいになる」と思う。

走って逃げる道は、海岸と舗装された大通を結ぶ防風林の道から、広い道幅の舗装道路に変わる。一直線の道。水は後ろから追ってきて、すでに足元はくるぶしくらいまでは浸っている。しかし水に足を取られたり、すくわれる感じはない。透明のそれから逃げようとしている感じ。小学校低学年くらいの女の子が逃げ遅れそうになっているので、手を引いて走る。

彼女はしばらくして、もう自分の方が早く走れるからか、怖くてパニックだったのか、急に私の手を振りほどいて前に出て走り出した。度を越した、すごい勢いで転げるように走るので、大丈夫だろうかと思ったが、やはりすぐに滑って体が宙に浮いた。丁度、橋の欄干にいたが、彼女はその隙間にすっぽりはまり、そのまますり抜けると、深い底にに続いているブロックで作られた川べりをすべって、ダムのように深い川に落ちてしまった。とても深く、暗い隙間。

残念だが、もう助けには行けない。私はそんな方法も知らなければ、自分自身も走らなければならない。一時的に彼女を助けることはできたように見えたが、彼女は手を振りほどいて、自ら死に走った。私にとめることはできなかった。私は無力だが、それが現実であることを冷静に受け止めている。彼女の死がきまっていたのなら、それを変えることはできず、むしろ彼女が自分で運命の通りの選択をしただけ。私などが介入できるような次元ではない、と思いながら走り続ける。

2つ目の夢か、続きかもしれない。かつて住んでいた関西の自宅前。川を隔ててこちらから建物を見ている。しかし次のシーンでは、裏の庭山も見えている。はじめのシーンで「みた」と思った建物はなかった。

 
 
2005.3.10.
知らない土地。しばらく行くと海が見える。海岸はバリやサイパン、タイなどアジアを思わせる海岸。コバルトブルーの海。思わぬ急な海の出現に、すごく喜ぶが、海の色はくすんで、白波が目立つ。「泳ごう」と連れの人がいうが、次に見ると、そこには線路が引いてあり、汽車がとまっている。とてもクラシックな車体。本当に走れるの?とも思う。船着場のように陸地の入り口に接しているそこは、駅のホームのようになってしまった。汽車はどこからきて、海に続いている線路はどうなっているのかと思う。
 
 
2005.3.16.

海沿いのような土手にいる。左右が海(一見2本の大河に挟まれているよう)の真ん中にいる。志賀島手前の海の中の海上道路(福岡市東区)に似ている。友人たちと遊ぶためのビーチボールを持っている。私はうっかり、それを水平線に向かって左側の海におとしてしまう。

そこで遊んでいた見知らぬ少女たちが、とってくれそうなのでそのまま見ていたら、度をこしたふざけ方をして、右側の海に落としこんでしまった。途中までは滑り落ちるような絶壁だが、行けないことはないみたい。しかしボールはそのさらに裏、鍾乳洞のように入り組んだつくりの穴にはまりこんでいるらしい。深い海溝にも見える。当人たちは、「自分たちで取りに行くから責めるな」といわんばかりで動いてくれるが、どう考えても取りにいける場所ではない。そもそも、こんなに深く暗い海底に続く傾斜を、立ち入り禁止にしていないのは危ないと思う。

 
 
2005.3.19.(前日)
太極拳の先生が「しゃがみ方がうまくないと大変」と話し出す。「上虚下実なら安定するが、上が重いと倒れるから気をつけなくてはいけない」と教えてくれる。
 
 

以上がここしばらくの間の、地震に関すると思われる夢です。他にも、大きな不安感だけで目覚めるものや大きな事故の夢もありました。「近く注意しなくてはいけないことがある」と夢は知らせてくれました。しかし3月4日の夢の後、実在の祖母が体調を大きく崩したと連絡が入りました。高齢なので危険もありうるとのことでした。祖母を連想させた4日の夢では、海女さんは海底だけを見ているのですが、白装束だったことや、夢の場所が親族の墓所を思わせる場所だったこともあり、意識は祖母の病状に固定されてしまいました。ただ、後から思えば、祖母が暮らす土地もまた、地震とのかかわりが深い土地です。

3月9日の夢は、スマトラ沖地震を連想させるものです。しかし、女の子を助けられなかった事を「もし心配な時期の予報ができたとしても、人間は、生死に介入できない小さな存在で(祖母に関して)何もしてあげられない現実を、再認識する夢だろうか」と考えたりしました。

さらに、同夜の第2部の夢には、かつて7〜8年暮らした、大阪と神戸の間にある場所が出てきます。阪神淡路大震災時には暮らしていませんが、その後、訪れた時には、震災の影響で、自宅だった建物は既になく、手付かずの空き地になっていました。夢では、はじめは建物を見て、次になくなっている状態を見ています。建物がないその場からは、震災が連想できます。ただ、この場所は、私「個人の象徴辞典」では、肉親に関する出来事の際によく現れる場所なのです。ですから、まだ震災より肉親への心配でした。

ちなみに3月8日の夢に出てくるNさんは、阪神淡路大震災を経験していらっしゃいます。彼女の自宅は比較的被害が少ない地域でしたが、他の方のために相当の尽力をなさいました。(彼女が出てきた夢は、避難所を暗示するものだったのでしょう。近所の小学校は実際に避難所になりました。)

しかし、心配だった祖母も、もう峠は越しただろうと思われた時を過ぎても、まだ海の夢が続きます。そこで漸く、これは少し違うなと思い始めました。とはいっても、10日の夢では、汽車がクラシックで、明治や大正を思わせる形でした。祖母の生まれた時代をさす可能性があるようで、まだそちらの方が気になります。生命の源である海から続く線路が彼女の人生なら、明治・大正時代を生きている祖母=レトロな汽車はどこへ行くのだろうという気持ちにもなりました。しかし線路は、海に続く断層で、今回の福岡の地震が、ずいぶん古い時代から久しぶりに起きたことをさすレトロな汽車(石炭という地球の一部によって動くエネルギー)だったのかもしれません。

しかし16日になると、さすがに視点は変わりました。「ダムに飲み込まれた少女」と同じく、またしても「海の中にある深い海溝にボールが落ちてしまう夢」です。ピンと来ていない時には、同じモチーフが繰り返し夢に現れるパターンです。そこでやっと、地底や海に関する災害や事故を思い浮かべました。けれど地震が少ない福岡です。福岡から海を進むと、朝鮮半島に着きます。自然の力を暗示する夢ですが、何か別の、国際関係に関わる事件等を考えてみたりしました。或いは、よその地の地震はどうかとも考えました。ちなみに最後の夢で連想している志賀島は、震源地にも近く、実際に今回の地震で、17センチ動いた地続きになっている島です。また、私「個人の夢辞典」にはトラブルの時に、「少し気味が悪い少年・少女」が出てくることが多いのです。夢の中の「見知らぬ子供たち」はここから出てきていると思われます。

そして、最後の夢には、いつもお世話になっている氣に精通なさっている太極拳の先生が登場しました。先生は80歳くらいの方ですが(*後日確認しましたら80も半ばとのこと)、いつも凛としてお立ちになり、演舞を見せ、体のバランスのことをよくお話になります。上虚下実=上は軽く、下はしっかりと、ということですが、私はこれを自宅の家具には応用できていなかったようです。地震の際に、上の方が重かった本棚とテレビが倒れました。ちなみに、地震の時、当の先生は、揺れに任せて立っていたそうです。

以上が、ここしばらくの夢日記です。一人での夢解きでは、意識が固定されると本質を見落とす心配があることを改めて実感しました。ただそれでも、大きな何かを感じて、警戒の気持ちはしっかりあります。それに、夢の中で「
残念だが、もう助けには行けない。私はそんな方法も知らなければ、自分自身も走らなければならない。」「私は無力だが、それが現実であることを冷静に受け止めている」「私などが介入できるような次元ではない、と思いながら走り続ける。」というように、人間の無力さを実感してもいました。

これらによって、いつのまにか心の準備が出来ていて、地震の瞬間に「ああ、これか・・」と思い、冷静でいることができました。その後の余震なども大変でしたが、「夢は見ただけでも意味がある。夢ってありがたい」と、改めて声を大にして言いたいような、嬉しい気持ちでもありました。

又、夢は本人が耐えられるだけの材料しか与えてくれない所が、優しい所です。もし、仮に、大きな地震という直接的な夢を見ていたとしても、自然の前では、無力な人間であることに変わりはありません。何となくの心の準備をさせてもらうことがまたありがたくも思いました。この夢のやさしさには以前もとても感謝したことがあります。それは「ただ見送ることしか出来ない死」に関する夢をみた時でした。それはまた次の機会にお話します。

(’05.03.23.掲載)